先月の有給消化期間に山口県の祖母に会いに行った。
数年ぶりに祖母と施設で面会し、温泉に行き、次の日は秋芳洞に行っただけののんびりとした静かな旅だった。
山口は東京と違い電車もバスも1時間に1本くらいしか来ないし、土地の広さに対して住人が少ないのでとても静かでのんびりしてる。
そこで暮らしている人たちは皆おっとりしてて人に親切で、充実しているとはまた違うけどとても満たされているかんじがした。
駅で電車を待っている間の静寂の中で読書に没頭する時間はこの上ない贅沢だった。
こんな風な生活も良いのかもしれないと思った。
グチャグチャの都会生活はもう疲れた。
ここ数年のことだけど、自分が自分の人生を受け入れられていないのかなと感じることがあった。
なんというか「こういうのが幸せで、こうでなければいけない」という考えをしている人が多いなと思う。
テレビでよくある幸せ芸能人夫婦とかゴージャスな生活特集とかを見てると「これの何が面白いんだろう」と疑問に思い、電源を落としてしまう。
毎日生きていて思うけど「充実してなければいけない」とか「豪華な生活をするのが良い」なんてことは全然ないと思う。
朝起きて、ごはんを食べて、職場に行って働けばあっという間に夜で、その後は家に帰って洗濯したりご飯を食べたりお風呂に入ったりしなければならない。
人生の必須項目をこなしていれば充実だの豪華さだのを選択する隙間なんてほとんどなくて、だからこそそこに無理にそれらの要素をつっこもうとするのはとても不自然な行動だと思うわけで。
だから毎日毎日「今日はこんなにキラキラしてました」みたいな主張を上げている人を見てるとすごく不自然に見える。
なんかさ、別に幸せじゃなくてもいいじゃん別に、と最近思う。
一時期インスタにハマっていた時期、あのカフェに行きたい、こういう写真が撮りたいと言って動画も撮ってストーリーに上げまくっていたけど正直今思えば見てる人(主に既婚の友人)に自慢したいだけだった。
他人の幸せを見て「自分もそうじゃなければいけない」と思って「私も充実してるから!」と牽制するような行為だったというか。
でもこういう行為をしている時って気持ちも焦ってるし落ち着いていないんだよね。たぶん。
同棲が決まって、生活が安定してきてからSNSを見る機会や投稿に躍起になることが格段に減った。(というかなくなった。)
1日の終わりに好きな人とホッとするひとときを過ごせること、生活を一緒に考えることはとても心が満たされることだった。
そのこと自体はとても平凡で当たり前のことだから最初は気づかなかったけど「幸せってこういうことなんだな」とやっと気づいた。(もちろんあくまで私の幸せではあるけど)
他人に幸せをアピールするということは結局は寂しいということなんだと思う。
心のどこかで毎日の充実を信じ切れていないのだと思う。
私は自分の毎日の生活や人生を受け入れることができたんだと思う。
それはとても心満たされることだった。
たまの贅沢はとても楽しいし幸せだけど、一緒にいる人とだけ共有できればそれでいい。
瓶に詰めるみたいに大事にひっそりと持って、しばらくしてから「あの時楽しかったよね」とちょっとだけ思い出す人生。
それでいいんだなと思った。
それじゃぁ、今日はこのへんで。
俳人の種田山頭火が愛したと言われる川棚温泉。源泉かけ流しで、とっても気持ちよかった。山口県は一番最初に知った田舎。だから一番好きなんです。